ネット・ゼロエミッション達成に向けた前進
脱炭素化社会の実現に向けたエネルギーシフトが世界中で加速する中、日本郵船グループはGHG(温室効果ガス)排出量削減について「2050年までのネット・ゼロエミッション達成」を長期目標に掲げ、さまざまな取り組みを進めている。中でも着実に前進しているのが、燃焼してもCO₂を排出しないアンモニアを燃料とする「アンモニア燃料国産エンジン搭載船舶の開発」プロジェクトだ。
2024年8月23日、アンモニア燃料船開発の一環として進められてきた世界初の商用アンモニア燃料船である、アンモニア燃料タグボート「魁(さきがけ)」が竣工した。日本郵船(株)で投入が続くLNG燃料船の “先駆け”として、2015年に竣工したLNG燃料タグボート「魁」を、改造という、技術的にも難しいチャレンジを乗り越えて誕生したこのアンモニア燃料タグボートの実装は、海運の脱炭素をリードする大きな一歩となる。
技術と専門性を集結させた改造工事
日本郵船グループが一丸となって「2050年までのネット・ゼロエミッション達成」に取り組む中、「魁」改造の実作業は日本郵船グループの京浜ドック(株)が担った。
京浜ドックは小型船舶の新造船並びに修繕事業を行う会社として、日本郵船の出資で1968年に設立された。2003年に追浜工場(神奈川県横須賀市)を開設してからは、新造船業へと事業を更に拡大。2013年には日本初のハイブリッド推進システムを搭載した環境配慮型タグボート「翼」を建造し、2015年には日本初のLNG燃料タグボート「魁」を建造。今回のアンモニア燃料タグボートへの改造も含め、日本郵船グループの脱炭素戦略実現に向けた次世代新技術の研究開発機能も担っている。
京浜ドックでタグボートに携わること30年という設計部部長の新實は今回の改造について、「今ある船殻で機器を入れ替えるというのは初めてのことでした。LNG燃料タグボートの『魁』を建造した実績を参考にしながら進めたものの、すでに型が決まっている狭い空間内にアンモニア関連機器をレイアウトしつつ、人命に関わるほど毒性の強いアンモニアに対して安全性を担保したルール策定も進める必要があり、新造設計とは全く異なる苦労がありました」と語る。
改造工事ではLNG燃料タグボート「魁」の船体を切断し、継続して使用する配管や機器を残しつつ、LNG関連機器を取り出し、エンジンや燃料タンク、それをつなぐ配管・バルブを含めたアンモニア関連機器を本船に搭載するという複雑な工程で進められた。
LNG燃料タグボート「魁」建造にも携わり、今回の工事で現場指揮を執った製造部の東城は、「切断前から何がどこにあるかを把握できていて、撤去するものと残すものの判別はスムーズでした。ですが建造が進捗する過程においてレイアウト変更や追加撤去が必要になるなど、想定外の事態も多く発生し、その都度工程表を見直し、職人さんや設計者、関係者との調整を繰り返しました」と振り返る。
新實と同じく設計部で主に配管設計に携わった清水は、「今回の工事は3D設計なくしては成立しませんでした」と断言する。細かく配管が施される空間の図面は、平面図での製図では一つの配管が入れ替わるたびに大幅な書き直しが必要になる上に、平面図だけでは到底全貌を把握しきれない。誰が見ても立体的に状況が把握できる3D図面を用いたからこそ、現場工事を指揮する東城や、職人、実際に船に乗る乗組員とリアリティのある検討を進めることができたという。
人間に例えると心臓にあたる部分で、血管の一部を残しながら臓器を入れ替えるような複雑な工事を進めつつ、狭い空間にミスなく機器を配置していく。前代未聞の難工事は、それぞれの専門性を持った人間の技術と経験を結集させて、進められた。
協力を得ながら、前例のない道を進む
アンモニアを燃料とする商用船は世界でも前例がない。新實は、「我々は海の上を安全に走ることができると認められるように、検査を通過する船を造る必要があります。毒性が強いアンモニア燃料を使用するにあたり、この世にルール自体が存在しない中、船級協会の(一社)日本海事協会や日本政府とルール解釈について協議しながら進めました」と話す。「さらにHAZID※と呼ばれるリスク評価を実施することで安全性を評価・考慮する必要がありました。災害が起こった時にどのように対処するか、また、その対処後のリスクを評価するための会議を行い、そこで決まったルールは船へダイレクトに反映しなくてはいけません。ルールに加えてリスク評価により整理した安全要件も満たす必要があり、その点でも非常に神経を使いました」と清水が続ける。
アンモニア燃料が通る配管の検査では、東京湾でタグボートの運航を行う日本郵船グループの(株)新日本海洋社から、LNG燃料タグボートの「魁」に8年間乗船し、改造された「魁」の運航も担うことになる機関長が同席。乗組員の立場で試験に立ち会ったという。東城は、「機関長は予定よりも早くドック入りし、図面をじっと読み込んで頭の中にすべて叩き込んだ上で、検査の際には乗組員ならではの視点で的確な提案をしてくれました。機関長がいなければあの複雑な検査はできなかったため、全面的な協力を得られたことは、グループの強みだと感じました」と話す。
世界初の商用アンモニア燃料船の実装を前に、関係者と連携しながら、あらゆる方面で考えうる対策と対応を重ねた。さらに機器の換装を終えた後の試運転でも調整は続く。新實はその詳細を、「安全装置やエンジン機器の作動確認は、結果的に数百項目に上りました。失敗があれば調整し、改めて最初の手順から確認していきました」と説明する。
設計にはじまり改造工事から試運転まで、すべてに前例のない難しい挑戦は、関係する担当者全員の地道で粘り強い対応により、一つひとつ、クリアされていった。
共通する、「良い船を造りたい」という想い
10カ月間に及ぶ壮絶な改造工事について語る3人の表情は、内容の複雑さとは裏腹に明るい。「本当に海の上を走れるのか、やっている最中には想像できなかった」と清水が話せば、東城は「自分で工程を作っていて終わりが見えないと感じることがあった」と続ける。それでもやり遂げられた理由を問うと東城は、「自分でもなぜこんなに頑張れるのだろうと考えた時、『魁』への愛着が強いことに気付きました。以前に自分が建造した船を切断した時にはすごく悲しくなったのですが、機器を入れ替えていくうちに『もっと良い船にするんだ』という強い気持ちに切り替わっていきました」と答えた。
新實も、「何もないところから鉄板を曲げて船の形にして、それが世の中に出て活躍してくれるというのが、ものづくりの、タグボートの建造に携わることの楽しいところです。自分が造った船は売船されて色が塗り替えられて船名が変わっても、わかるものです」と語る。
清水は最後までやり遂げた、現場の強さを痛感したという。「誰も造ったことのない燃料船で気を配るポイントが大量にある中、現場では関係者間で連携しながらスピード感を持って最善策を選択し、短い期間でまとめ上げていきました。あんなに困難な状況から大きな事故もなく、本当にちゃんと動く船がよくできたなと。現場が強いのだと、心の底からそう思いました」と言う。
京浜ドックの職人は皆、優れた技術の持ち主というだけでなく、課題解決に対して惜しみなく、経験に基づく提案をしてくれるのだと東城は話す。「社外からも当社の職人は本当に親切だという声をよく聞きます。ある船主さんの監督は、数年ぶりに船を造る時にも『また彼に頼みたい』と職人を指名してくるくらいです」。
造船や修繕では、工事の途中でも協力会社や顧客、実際に船に乗る乗組員から具体的な提案や要望を出してもらうことも多く、現場はそれに応えようと尽力するという。良い船を造りたい──。その共通する想いで現場にチームワークが生まれ、それは設計部・製造部から社内、そして社外にまで波及する。
そのチームワークについて新實は、日本郵船グループを俯瞰して語る。「このプロジェクトは親会社の日本郵船が旗振りをしており、グループ会社で造船を手掛けていることから当社が改造をやらせてもらったわけですが、こうした共創で取り組むプロジェクトだからこそできたと思うんです。ハイブリッドの『翼』やLNGの『魁』の時もそうでしたが、こうした特殊で新しいものというのは、個社単体ではなかなか実現できないものです。大きなプロジェクトの中で、皆の見ている方向が一緒であるという強みが、今回は遺憾なく発揮されたと思います」。
同じ方向を見て脱炭素化へ
今回の改造工事は、ネット・ゼロエミッション達成に向けた「アンモニア燃料国産エンジン搭載船舶の開発」プロジェクトの一環であったが、京浜ドックとしては、次世代のタグボートに対する関心も高い。今回、世界初の商用アンモニア燃料船が実現したものの、「どのエネルギーが最もタグボートにふさわしいかはまだわからない」と新實は言う。「自動車メーカーの動向に左右されるとすると、いずれは全固体電池が主流になるかもしれない。今後はその辺りを見据えていきたいと思っています」。
そして、と新實は続ける。「そんな中でも、造船所が脱炭素化に貢献できるところとは何かと言えば、燃料の部分ではなくて、やはり船体の設計です。つまり、もっと抵抗が少なくて燃料効率が良い、かつ船としての性能を損なわない形はないのか。それを模索し続けることが、我々にとっての低炭素化への挑戦だと思っています」と語る。
日本郵船グループはこれからも、グループ各社の強みを活かし、他社とも共創しながら脱炭素社会の実現へ歩みを進めていく。同じ方向を見ながらともに歩みを進める京浜ドックの、「良い船を造りたい」という思いも、間違いなく脱炭素社会への貢献へ、そして「より良い未来」につながっていくのだ。
インタビュー 2024年10月4日
- ※ HAZID(Hazard Identification Study)
潜在的なリスクに基づく項目の洗い出しを通して評価を行う安全性評価手法の一つ。新しい構造物やシステムを作る場合に、人命や財産の安全、環境などにどのような影響を及ぼすかをさまざまなシナリオを想定し、リスクの大きさの評価を行う