世界にひらく日本の歴史は海からはじまった Ver.2 <日本郵船歴史博物館 – 海風日記>
公開日:2025年02月28日
更新日:2025年02月28日
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日本郵船歴史博物館では、近代日本海運の黎明期から今日に至るまでを、日本郵船の社史を通してご紹介しています。本記事では、博物館の所蔵品からわかる当時の様子をお届けします。
旅行ガイドブック
『埃及見物』
1925年5月20日発行 19.1×12.9cm
日本郵船歴史博物館所蔵
欧州航路の途中、埃及(エジプト)への小旅行は一つのセールスポイントでした。 冊子の後半はエジプト史が掲載され、ミイラの語源などについても書かれています。
『死都ポンペイを訪ふために』
1926年10月発行 19.1×12.7cm
日本郵船歴史博物館所蔵
当時「ナポリを見てから死ね」と言われるほど、ナポリは異国の憧れの地でした。本書は、ナポリ市内と郊外、近郊のポンペイの見所や歴史的背景も解説しています。
『爪哇の旅』
1927年12月15日発行 18.7×13.0cm
日本郵船歴史博物館所蔵
爪哇(ジャワ)の古都、史跡、景勝地、風俗、芸術などの見所の紹介と、シンガポールからジャワを周遊する約10日間のモデルコースを掲載しています。
1900年代初頭までは乗船客の大半が外国人であったため、日本郵船は英文のパンフレットを多数発行していました。1920〜30年代に入ると、国内でもツーリズムが盛んになり、一定数の日本人が海外に出掛けるようになるにつれ、小冊子型の日本語版パンフレットを発行するようになりました。
停泊日数が長く上陸が可能な場合、乗船客は寄港地での観光を楽しむことができました。冊子には寄港地案内とともに見所や注意事項などが記され、さながら街歩き用のガイドブックのようでした。中でも、欧州航路の乗船客にとって、エジプト、イタリアのポンペイ、ジャワ(現在のインドネシア)が人気の寄港地で、日本郵船は英国のトーマス・クック社や南部兄弟商会と代理店契約を結び、乗船客に小旅行の斡旋(あっせん)もしました。
近藤廉平胸像
大熊氏廣制作
1902(明治35)年、ブロンズ、高さ 78.0cm、幅 54.0cm、奥行 32.0cm
日本郵船歴史博物館所蔵
日清戦争後の勲三等旭日中綬章を下賜された50歳前後の廉平の姿です。1896(明治29)年の廉平の来訪者記録を見ると、何度となく大熊が自宅に足を運び、写真だけでなく実際の本人を前にしてかなりの時間をかけ制作したことがうかがえます。
日本郵船の第三代社長である近藤廉平(1848〜1921)の胸像は制作されてから100年以上の歴史を背負っています。写実的に造形された廉平像は、顔をやや上に向けることで動感を持ち、社長就任後の落ち着きと威厳を漂わせ、七つの海を制覇しようとする意欲的な眼差しを感じ取ることができます。
明治維新以来、日本ではあらゆる分野において西欧に比肩する文化水準が求められ、美術品も例外ではありませんでした。作者は日本における近代彫刻の先駆者である大熊氏廣(1856〜1934)です。現在の埼玉県川口市に生まれ幼少より日本画を学びましたが、工部美術学校彫刻科に入学、ヴィンチェンツォ・ラグーザ(1841〜1927)に師事しました。1884(明治17)年竣工の有栖川宮邸(ジョサイア・コンドル設計)の彫刻を担当し、銅像制作技術の習得のため、岩崎彌之助の援助を受け欧州に留学しました。帰国後は岩崎家から六義園にアトリエを提供され、当時の日本を代表する彫刻家として皇族・政治家・軍人・実業家・学者をモデルとした数多くの西洋式ブロンズ像の制作を手掛け、その名声は不動のものとなりました。代表的な作品に岩崎彌太郎像、靖国神社の大村益次郎像があります。
六分儀
「氷川丸」で使用されていた六分儀
1943(昭和18)年製作
株式会社玉屋商店製造
半径16.2cm
日本郵船歴史博物館所蔵
『「大洋丸」夕食メニュー』
1935(昭和10)年7月13日、縦30.6cm×横19.6cm
日本郵船歴史博物館所蔵
左の図柄は、一等航海士が六分儀を使って船位測定する様子
六分儀は天体と水平線の角度を測る航海計器で、円を六分割した円弧の枠を持っているのでこの名が付いています。陸地の見えない外洋を航行する船舶では、航海士が六分儀を使って船位を測定していました。GPSなどの位置情報技術の発達と普及により、2002年には船舶設備規程が改正され法定船用品から除外されましたが、現在でも遠洋航海で航海訓練を行う練習船では、六分儀を用いて天測による船位測定を行っています。
製造元の株式会社玉屋商店(現、タマヤ計測システム株式会社・東京都品川区)は計測機器メーカーで、江戸時代初期に「玉屋」の屋号で眼鏡販売を手掛けたことに始まります。東京天文台(現、国立天文台)から依頼を受けて1913(大正2)年に製作した日本初の天文観測機器の開発技術を基に、当時は海外から輸入に頼っていた六分儀の国産化に着手しました。現在も六分儀を含む航海計器を製造・販売しています。
諏訪丸 窓枠
「諏訪丸」の窓枠
日本郵船歴史博物館所蔵
「諏訪丸」
全長:153.92メートル
総トン数:11,758トン
速力:16.46ノット
建造:三菱合資会社三菱造船所
竣工:1914(大正3)年9月11日
「諏訪丸」は1914(大正3)年9月、三菱合資会社三菱造船所(現、三菱重工業株式会社長崎造船所)で建造され、欧州航路に就航した貨客船です。船名は諏訪神社(長野県)から名付けられました。内装は英国クラシック調で、ベルギーのアルベール皇帝皇后両陛下やチャーリー・チャップリンをはじめ多くの著名人も乗船するなど、長きにわたり親しまれました。
それまで黒一色であったファンネルマークを「二引」に変えたのは1929(昭和4)年3月ですが、第一船はこの「諏訪丸」でした。
太平洋戦争中は海軍に徴用され、1943(昭和18)年3月28日、マーシャル諸島ウェーク島付近で潜水艦の雷撃を受け擱座(かくざ)し、船体放棄されました。この窓枠は米国の兵士が取り外し、保管していたもので、戦後50年を機に当社に寄贈され、当館で所蔵しています。
船の特徴である丸窓には、ネジで開閉する蓋がついています。ガラス割れもなく、長い時間と数奇な運命を経たとは思えないほど良好な状態を保っており、船用品の堅牢(けんろう)さを改めて感じることができます。
往時の航海中、この窓からはどのような景色が見えていたのでしょうか。