日本郵船歴史博物館
航跡Voy.172 日露戦争期の航路運営

 三大航路が開設された8年後の1904年、日本とロシアの間で満州(中国東北部)・朝鮮半島の利権をめぐって戦争の火蓋が切られた。1年半に及ぶこの日露戦争では多くの人や物資を送り続けるために大量の船舶が必要とされ、日本郵船からは遠洋・近海航路合わせて73隻の船舶が徴用された。これにより自社船による航路運営が困難となったため、同盟船社あるいは中立国船社から船舶を借りて運航することで、荷主の信用維持に努めた。
 徴用された73隻のうち海軍の仮装巡洋艦となった「信濃丸」は、哨戒中に九州西方海域でロシア艦隊を発見。「敵艦見ユ」の打電で日本海海戦の勝利に貢献し、その名を歴史に残した。しかし「金州丸」「和泉丸」「常陸丸」は日本海で沈没、「仁川丸」をはじめとする8隻は旅順港閉塞(へいそく)作戦で旅順港(中国)に集結するロシア艦隊の出動を遮断するため港で自沈。この戦争で日本郵船は11隻(約3万4,000トン)を喪失した。特に「常陸丸」の被害は大きく、ジョン・キャンベル船長以下乗組員104人、搭乗していた将兵、荷役作業員を合わせて1,000人以上が犠牲となった。その慰霊碑が建つやす國神社(東京都)では、毎年6月15日に英国海軍武官、当社役員など列席の下、慰霊祭が行われている。
■日露戦争中の遠洋航路船舶確保
■日露戦争中の遠洋航路船舶確保
「信濃丸」に贈られた感状
「信濃丸」に贈られた感状
 
殉難船「常陸丸」
殉難船「常陸丸」


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グループ報「YUSEN」2008年5月号表紙 グループ報「YUSEN」
2008年6月号No.610

【表紙のことば】
"New Horizon 2010"始動。
スピードを緩めることなく、目標達成を目指します