日本郵船歴史博物館
航跡Voy.167 日本郵船歴史博物館

1858年の日米修好通商条約締結によって鎖国を解いた日本にとって、産業の基盤となる海運の育成は急務であった。しかし和船や老朽化した汽船がほとんどの日本海運には競争力がなく、沿岸輸送は米国のPacificMail Steamship社(PM)や英国のPeninsularand Oriental Steam Navigation社(P&O)に独占されつつあった。危機感を募らせた明治政府は、72年に日本国郵便蒸気船会社を設立。一方、民間では71年に土佐藩の回船業、九十九商会を継承した岩崎彌太郎(1835〜85)が、これに対抗しようとしていた。
 社名を三菱商会と改め東京に本拠を移した彌太郎は、征台の役(74年)で兵員輸送に即応して政府の信用を獲得。75年には政府命令で日本初の外国定期航路となる横浜〜上海航路を開設し、既に同航路を開いていたPM社を激しい競争の末に撤退させるなど海外船社との競争にも打ち勝っていった。
さらに政府から示された民間会社育成の海運政策により、日本国郵便蒸気船会社の汽船の下げ渡しを受けるとともに政府から郵便物の輸送を命じられ、社名を郵便汽船三菱会社と改めた。
 しかし、政府内外に同社の独占ぶりに対する批判が高まり、82年に第一国立銀行頭取の澁澤榮一、三井物産会社社長の益田孝らが中心となって半官半民の共同運輸会社を創立。日本海運の主導権をめぐって激烈な競争が繰り広げられていったのである。
写真
郵便汽船三菱会社幹部(いす席前列中央が彌太郎)

「高砂丸」(2,121トン、全長98.985m)は、74年に明治政府が英国より購入。翌年、郵便汽船三菱会社に下げ渡され、日本初の外国定期航路である上海航路に就航
岩崎彌太郎
岩崎彌太郎
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グループ報「YUSEN」2008年1月号表紙 グループ報「YUSEN」
2008年1月号No.605

【表紙のことば】
そびえ立つ富士山。
また、新たな1年が始まります