航跡
「砲弾のあと」

日露戦争中(1904〜05年)、当社は所有船舶76隻中67隻を軍に徴用され、そのうち11隻を喪失しました。欧州航路の花形船であり、日本で造られた初の大型船「常陸丸(6,172トン)」もその1隻です。1904(明治37)年6月15日、海陸軍兵約1,000人を乗せて船団を組み、玄界灘を航行中にロシア・ウラジオストク艦隊に遭遇。戦闘設備を持たない輸送船はスピードの速い艦船の攻撃から逃れることができず、集中砲火を浴びて轟沈(ごうちん)。イギリス人ジョン・キャンベル船長以下乗組員、海陸軍兵を合わせて1,000人以上が亡くなる大惨事になりました。

「常陸丸」とともに航行していた「佐渡丸(6,219トン)」も、両舷に水雷を受けて大きく傾き航行不能に陥ります。沈没だけは免れた「佐渡丸」は、翌年の日本海海戦に仮装巡洋艦として参加。平和が戻ってからは、1933(昭和8)年まで再び欧州航路やシアトル航路、ボンベイ航路で活躍しました。砲弾によって大きく穴の開いた「佐渡丸」の外板は、修理を行った三菱長崎造船所(現、三菱重工業(株)長崎造船所)によって大切に保管され、同社の長崎造船所史料館で今なお当時の様子を伝えています。



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社内報「YUSEN」
2005年6月号

【表紙のことば】
船を建造するのに必要不可欠な青図。新しく発表された中期経営計画“New Horizon 2007”は、私たちNYKグループの青図となります。