便汽船三菱会社から青函航路を引き継いだ当社は、日本国有鉄道が連絡船を就航させてから2年後の1910年(明治43)まで、25年間にわたって本航路を運営していました。
 久田佐助。1903年(明治36)10月29日、青函連絡船「東海丸」が津軽海峡で貨物船と衝突沈没した際、38歳にして劇的な殉職を遂げ、その名を一躍全国にとどろかせた船長です。吹雪を伴った時化(しけ)の中、乗員乗客104人を乗せた「東海丸」が函館の手前29キロに迫った午前4時半、ロシアの貨物船「プログレス」号が、突然右舷(うげん)腹部に衝突。乗客たちは5隻の救命ボートに移されますが、3隻が転覆。久田は自分の身体をマストに縛りつけ、最後まで綱を引いて周囲の船や沿岸に救助を求める汽笛を鳴らしながら船体とともに逆巻く波間に沈んでいったのです。衝突から約30分後のことでした。結局47人の犠牲者を出しますが、過半数の乗客・乗組員が救助されました。
国定教科書
 以前、小学校の教師だった久田は船長を夢見て函館商船学校に進みます。念願かなって船員となった1893年(明治26)は、海運国を目指す日本の進路が固まり、当社がボンベイ航路を開いた年でもありました。そうした時代背景もあってか、海の男の気魂に燃える久田は日ごろから妻に「自分の船が遭難し、1人でも死者が出たら自分の事だと心得よ」と語っていたと言います。
 その言葉通りの勇気ある行動は、やがて文部省唱歌や小学校の教科書にも掲載され、出身地の能都町(石川県)で地元顕彰会が命日に営む碑前祭は今年で100回目を迎えます。

高さ6.6mの慰霊碑


Back Number 日本郵船歴史資料館


社内報「YUSEN」
2002年9月号

【表紙のことば】
 路地裏の道が入り組み、どこまで行っても白い壁に覆われた道がすべてではないかと思えるギリシャ・ミコノス島。
 辛抱強く歩いた迷路の一角にあるレストラン「Eva's Garden」。緑に囲まれたお店と地中海の陽射しによく焼けたおじちゃんが、白一色の世界に彩りを添えていました。

(広報グループ 中原ゆかり)