日本郵船歴史博物館・日本郵船氷川丸

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明治150年特別企画 スペシャルコンテンツ「近藤廉平と近代日本海運の歩み」

明治期に欧州・米国・豪州の三大定期航路を一挙に開設するなど、近代日本海運の礎を築いた日本郵船第三代社長 近藤廉平の人物像を紹介します。

1. 廉平、東京へ行く

 近藤廉平は、徳島藩の医師の家系である父・玄泉と母・脇子の次男として、1848(嘉永元)年11月25日に誕生した。廉平は藩の儒学者である新居水竹(にいすいちく)とその教え子である柴秋村(しばしゅうそん)の下で学ぶ中、明治維新を迎えた。

 徳島藩では明治政府による版籍奉還をきっかけに、淡路島の帰属を巡って分藩独立運動(後の庚午(こうご)事変)が発生した。この問題は新政府にまで波及し、徳島藩は政府との交渉のため藩士を東京へ派遣することとなった。これに同行する機会を得た廉平は1869(明治2)年に徳島を離れ、上京したのであった。

2. 三菱商会への入社


岩崎彌太郎 三菱史料館所蔵

 上京した廉平は、1868(明治元)年より一橋徳島藩邸の文学教授となっていた柴秋村を頼りに学校世話方を務める一方、大学南校に通い英語を学んだ。この頃、岩崎彌太郎と親交があり後に廉平に三菱入社を勧めた徳島藩権大参事の星合常恕(ほしあいつねのり)にも知られることになる。

 廉平は庚午事変調停のため上京した新居水竹の下で書生を務めていたが、新居が1870(明治3)年騒動の首謀者として処刑されると、東京を後にし徳島へ戻ることになった。

 その後、廉平は大学南校時代から目をかけられていた星合に伴われて高知に赴き、星合の紹介により1872(明治5)年、三菱商会(当時、三川商会)で働き始め、間もなく大阪に転任。このとき廉平25歳であった。

3. 鉱山経営の近代化と苦難の連続

 1873(明治6)年3月に浪華本店係に任命され、正式に三菱社員となった廉平は、同年12月に吉岡鉱山(岡山県)の三菱への譲渡が決まると、吉岡鉱山に勤務することとなった。三菱の金属鉱山経営の始まりとなった吉岡鉱山で、廉平の手腕が発揮される。

 当初、鉱山には外国人技師以外に技師はおらず、経験と勘に頼った旧式の採掘方法が採られていた。廉平は業務規則を制定して賃金制度を導入するなど、経営の近代化を推し進めていったが、鉱夫のストライキや人員不足、鉱山事務所の焼失に見舞われるなど、苦難の連続であった。このような苦境の中でも廉平は吉岡鉱山の開発に尽力し、

「銀行ハ実着シテ動カス内外ヲ締約シ而シテ歳月ノ功ヲ積マサルヲ得ス鉱山モ亦然リ(鉱業は、幾多の歳月をかけわずかな利益を積み重ねていく銀行業と類似している)」

と述べている。その後、吉岡鉱山には開(さく)機が導入され通洞は開通、精錬設備も整えられ業績を伸ばしていった。

 1878(明治11)年、廉平は吉岡鉱山勤務から東京に戻り、調役(しらべやく)に就任。1881(明治14)年、高島炭坑(長崎県)が三菱に譲渡され炭坑事務所が設置されると、吉岡鉱山での経験を買われた廉平は、1882(明治15)年、高島炭坑々外部元締役として長崎に赴任した。

4. 日本郵船創業と廉平の登用

 1875(明治8)年、三菱商会は郵便汽船三菱会社と社名を変更し、西南の役(1877年)における軍事輸送への貢献や大久保利通を中心とした明治政府による海運保護政策を背景に海運事業を拡張し、日本海運を独占していった。

 しかし、三菱に対する海運保護政策は、大久保の死と「明治十四年の政変」による大隈重信の下野を契機にけん制に転じ、1882(明治15)年、共同運輸会社が設立された。郵便汽船三菱と共同運輸による競争が激化する中で、廉平は1883(明治16)年、横浜支社支配人に任命される。横浜は1859(安政6)年以来、日本の主要港の一つであり、横浜支社が一大拠点であったことはいうまでもない。

 両社の激しい競争は大きな損失を出し、共倒れになることを危惧した政府の調停もあり、1885(明治18)年9月に両社は合併し、日本郵船会社が誕生した。

 創業期の日本郵船は両社から継承した老朽船の改良・修繕費がかさみ、景気後退も重なるなど、決して順風満帆ではなかった。そのような中、廉平は鉱山経営時に培った経験をもとに、人件費・船費・燃料費削減のために尽力した。1893(明治26)年に専務取締役、1894(明治27)年に副社長に就任し、日本郵船の経営を担っていくことになる。


日本郵船の取締役会議事録
1893年-1897年


日本郵船会社横浜支店及横浜倉庫
1888年 清水建設(株)所蔵

5. 廉平の社長就任と航路拡充


近藤廉平肖像画 北蓮蔵作

 1895(明治28)年、第二代社長吉川泰二郎の急逝により廉平は第三代社長に就任した。廉平48歳の時であった。

 さて、日本郵船の海外遠洋定期航路開設の構想は、初代社長森岡昌純の時代から存在したが、実現には至っていなかった。1889(明治22)年には、当時の逓信大臣 榎本武揚宛に「太平洋航路開設に関する請願書」を提出している。1891(明治24)年、吉川は航路開設を画策するも軌道には乗らず、廉平もまた、1892(明治25)年に海外航路拡張の建議を帝国議会に提出したが、議会を通過しなかった。

1895(明治29)年、日清戦争の勝利は、海外航路拡張が本格化するきっかけとなった。欧米諸国に対抗するため海外航路拡張建議が議会を通過し、航海奨励法や造船奨励法といった海運保護政策が展開され、日本郵船は遠洋定期航路経営に乗り出す。1896(明治29)年、欧州・米国・豪州の三大航路を一挙に開設した。

 廉平は遠洋航路に加えて近海航路の拡張にも力を注いだ。1899(明治32)年、自ら北清方面に赴き、翌年には約1年間に渡る欧米視察を行い、各国で調査を実施。東洋貿易振興の必要性を説き、神戸−北清、上海−天津、長崎−香港航路の開設という形で結実していく。

 こうして日本郵船は、遠洋定期航路の開設により、「世界の船会社」としての地位を築き上げると同時に、近海航路の拡充により、ロシアや欧米列強の中国進出に対抗して、ますます規模が増大する日中間の交流に対応することになった。

 また、廉平は若く優秀な人材を積極的に登用した。彼らは第七代社長大谷登をはじめとして重役となり、昭和初期の日本郵船を支えていった。


CHART SHOWING THE STEAMER TRACKS OF
THE NIPPON YUSEN KAISHA 1896年
欧州・米国・豪州の三大航路が描かれている。


土佐丸開航式 1896年 五姓田義松作
欧州航路開設披露当日の土佐丸。向かって右側は威海丸。


佐渡丸模型
1898年、欧州航路向けに英国で建造。


企画展図録
「近藤廉平-社長の肖像」(203ページ)
当館ミュージアムショップで販売中
(¥1,800)