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日本郵船の歴史

世界有数の総合物流企業・日本郵船の1870年代から現在に至るまでの挑戦の軌跡

明治維新直後に三菱グループの最初の会社として誕生した海運会社が世界を相手に闘いを挑み、リーディングカンパニーとして度重なる困難に打ち勝ちながら、世界有数の総合物流企業として成長した現在に至るまでの、挑戦の軌跡をご紹介します。

  1. 1.日本をひらく
  2. 2.日本郵船誕生秘話
  3. 3.世界にひらく
  4. 4.豪華客船時代の到来
  5. 5.戦争と壊滅
  6. 6.復興への道
  7. 7.総合海運会社への変革
  8. 8.安定成長への対応
  9. 9.総合物流企業への挑戦

1875

日本をひらく

海外船社の日本進出に立ち向かうため、郵便汽船三菱会社誕生

明治維新。夜明けを迎えたばかりの新しい日本は、世界という大海原を前に立ち尽くしていた。開国当初の日本海運は外国船に太刀打ちできず、イギリスやアメリカの船会社が沿岸の貨物を独占しつつあった。そのことに危機感を持った明治政府は、半官半民の廻漕会社を設立した。一方、民間にも海運業が誕生しようとしていた。岩崎彌太郎は藩の廻漕業・九十九商会を継承し、1874年(明治7)東京に本拠を移した。(九十九商会は1872年(明治5)1月に三川商会、翌年3月に三菱商会、1875年(明治8)5月に三菱汽船会社、同年9月に郵便汽船三菱会社と名称を変更)征台の役の軍事輸送により大久保利通・大隈重信らの信用を得た三菱会社は、1875年(明治8)、政府より海運を一任された。新社名「郵便汽船三菱会社」の誕生であった。1875年(明治8)、三菱商会は政府の命を受け、日本発の外国航路となる横浜ー上海定期航路を開設。従来この航路を独占していたアメリカのパシフィックメール社は、9ヶ月におよぶ運賃切り下げ競争に音をあげ、日本沿岸より撤退する。次いで航路を開設したイギリスのP&O社も、政府の支援を受けた郵便汽船三菱会社の抵抗により、半年後に航路を閉じることとなった。

郵便汽船三菱会社の幹部たち
郵便汽船三菱会社の幹部たち

1885

日本郵船誕生秘話

郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の合併で日本郵船会社誕生

郵便汽船三菱会社への逆風は、政変と共に吹き始めた。1881年(明治14)、大隈重信の下野により政治地図が一変。政府の信任のもと日本の海運界に君臨していた郵便汽船三菱会社への、官民あげての抑圧が始まった。1882年(明治15)、政府は資本金の約40%を出資し、三井系及び関西財界から民間資本を集め、半官半民の「共同運輸会社」を設立、翌年より営業を開始する。日本海運の主導権をめぐる2社の競争は、熾烈を極めた。値引き競争による積荷の奪い合いが続く中、両社はまたたく間に体力を消耗。日本海運には暗雲が立ち込め、両社への世論も厳しさを増していった。両社共倒れによる日本海運の危機を救うため、政府の巨頭が動いた。西郷隆盛の弟、西郷従道農商務卿である。従道は両社を呼び、事態収拾のための協議を命じた。その交渉のさなか、彌太郎は生涯の幕を閉じることとなる。そして、1885年(明治18)、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社は合併し、新会社「日本郵船会社」が誕生した。新会社の社旗は「二引の旗」と呼ばれた。白地に引かれた赤二本には、郵便汽船三菱会社と共同運輸を象徴し、地球横断と社運の発展を願う思いが込められていた。

「二引」の旗
日本郵船社旗
「二引」の旗

1896

世界にひらく

「世界の船会社」として全世界へ航路を広げ日本の躍進に貢献

草創期の日本郵船は、決して順風満帆ではなかった。建設が進む鉄道網と、社外船と呼ばれた地方船主の進出により、激しい競争にさらされたのである。新たな決意のもと、日本郵船は海外に活路を見出した。1893年(明治26)、日本初の遠洋航路であるボンベイ航路を開設。輸出産業の花形である紡績業界の発展と共に、日本郵船は欧米の船会社との運賃競争を乗り越えて、日本の輸出入の拡大に貢献していった。さらに1894年(明治27)に勃発した日清戦争が発展への大きな転機となった。日清戦争の勝利は、国民の間に世界の中の日本という機運を盛り上げた。国民世論の後押しのもと、政府は海外航路拡充のための法律を次々と制定、日本の海運は大きく伸長していった。こうした時代の追い風と、日清戦争がもたらした利益をもとに、1896年(明治29)、欧・米・豪の三大遠洋定期航路を一気に開設した。この快挙により日本の国際的な名声は高まり、日本郵船は「世界の船会社」としての地位を固めたのである。日露戦争、そして第一次世界大戦期の好景気を経て、日本は世界第3位の海運国へと成長していった。

欧州航路第1船
欧州航路第1船
土佐丸(左)

1920

豪華客船時代の到来

豪華なサービスで世界中の著名人をもてなす

三大航路を開設して世界に進出した日本郵船は、日露戦争、第一次世界大戦下にあっても航路を守り、拡張していった。しかし、第一次世界大戦の終結と共に、日本の海運界には新たな荒波が押し寄せた。欧米の船会社が優秀船を太平洋に投入し、日本郵船は苦戦を強いられる。この劣勢を挽回するため、政府主導のもと、日本郵船は第二東洋汽船と合併し、太平洋航路に豪華客船を投入した。サンフランシスコ航路に浅間丸・龍田丸・秩父丸。シアトル航路に氷川丸・日枝丸・平安丸。1隻あたりの建造費は、当時の日本船としては破格なものだった。日本郵船は豪華客船にふさわしいサービスと人員を惜しげもなく投入した。「太平洋の女王」と呼ばれた浅間丸の室内装飾は、欧州の古典様式や、住宅1戸と同じ間取りを持った日本座敷など、さまざまな様式を取り入れ、豪華を極めた。船旅の愉しみとなる食事は、フランス料理のフルコースが食通をうならせ、郵船式か帝国ホテル式かと言われた。また、テニスコートやプールなどの娯楽施設も充実。各船には内外の皇族や政治家、ハリウッド映画スター、科学者など世界の著名人も乗船した。

浅間丸スモーキングルーム
浅間丸スモーキングルーム

1945

戦争と壊滅

戦況の悪化に伴い、徴用された多くの船舶・社員が太平洋に沈む

1937年(昭和12)日中戦争、1939年(昭和14)第二次世界大戦勃発。1940年(昭和15)には日独伊三国同盟が締結され、日本と英米の対立は決定的となった。1941年(昭和16)になると、日本郵船の遠洋航路は次々に休止され、開戦に備えて船舶の徴用が一気に拡大した。同年12月8日、太平洋戦争開戦。太平洋の新たな女王として建造された豪華客船・橿原丸は海軍省買い上げとなり、商船として一度も航海することなく空母「隼鷹」に改造された。その他、新田丸、春日丸(Ⅱ)など空母に改造された船を含め、多くの船が幾多の人命と共に太平洋に消えていった。

橿原丸(完成予想図)
橿原丸(完成予想図)

1950

復興への道

戦後の苦難を乗り越え再び世界の海へ 戦後8年で戦前の航路をほぼ回復

終戦、そして日本占領。GHQの海運政策は苛酷だった。速力や航路は厳しく制限され、日本商船は、外航航海中は国旗の替わりにSCAJAP(連合国日本商船管理局)の旗での運航を義務づけられた。また、政府は戦時補償ゼロを決定。しかし、世界の東西対立が深まるにつれ、GHQの政策は急変する。1950年(昭和25)、日本の海運界は一部統制が解かれ、日本船のアメリカへの入港も許された。苦難を乗り越え、日本郵船は航路を回復していった。1951年(昭和26)4月、バンコック航路より外航定期航路を再開。1952年(昭和27)4月、サンフランシスコ講和条約発効。戦後初めて日の丸を掲げてニューヨークに入港したのは、日本郵船の赤城丸(Ⅱ)だった。1953年(昭和28)にはほぼ戦前の航路を回復し、戦後8年にして、日本郵船は完全に世界の海へ復帰した。

赤城丸
戦後初めて日の丸を掲げてニューヨークに入港した赤城丸(II)

1960

総合海運会社への変革

タンカーなどの資源輸送専用船隊を投入、コンテナ化〜変革への挑戦

「もはや戦後ではない」-1956年(昭和31)の経済白書が宣言し、日本経済が高度成長の扉を開けた頃、海運界にも大きな変革が訪れる。重工業を中心とした産業の変化に伴い、石油や鉄鉱石を輸入する専用船の需要が高まった。1959年(昭和34)、日本郵船はタンカー事業に進出し、海運経営の多角化へと踏み出した。さまざまな産業分野の原料輸入や製品輸出にあたる大型専用船を次々と建造し、輸送コストの削減により日本の高度成長に貢献したのである。一方、1960年(昭和35)、ジェット機時代を迎え日本郵船は赤字部門となった客船事業から断腸の思いで撤退した。1964年(昭和39)、日本郵船は三菱海運と合併し、専用船部門で業界トップとなった。翌年にはタンカー保有数でわが国第2位となる。その頃、アメリカでは世界の輸送の在り方をくつがえす”革命”が進行していた。海陸一貫輸送を実現するコンテナリゼーションである。日本郵船はこの動きに対応し、定期航路のコンテナ化に乗り出した。1967年(昭和42)より、コンテナを積み降ろしするターミナルを建設。1968年(昭和43)にはわが国初のフルコンテナ船・箱根丸が就航し、日本のコンテナ時代が幕を開けた。

箱根丸
日本初のコンテナ船
箱根丸

1970

安定成長への対応

オイルショック後の海運不況を乗り越え、LNG船、自動車船を投入

高度経済成長の時代にも陰りが見え、1973年(昭和48)、第四次中東戦争に伴う第一次オイルショックは、原油の価格を一気に高騰させ、世界は同時不況へと反転していく。石油から代替エネルギーへの移行が始まり、好況のさなかにあったタンカー市況は暴落した。円高による船員費の高騰も重なって、日本の海運は競争力を急速に低下させた。日本郵船は、タンカー建造の取り止めと既存のタンカーの売却により、この危機を乗り切った。さらに、仕組船や混乗船といった新たな試みを推進し、コスト削減による国際競争力の強化に取り組んでいった。日本郵船は自動車の輸出増を見据えて、1969年(昭和44)に自動車/ばら積み兼用船「第五とよた丸」を、さらに1970年(昭和45)には初の自動車専用船神通丸を建造。1970年代には自動車専用船船隊を持つに至った。1983年(昭和58)には、石油の代替エネルギーとして注目されたLNG(液化天然ガス)を輸入する専用船を就航させた。また欧州や北米への輸送を効率化するため、コンテナ船の省エネ・大型化を推進した。

神通丸
自動車専用船
神通丸

1985〜

総合物流企業への挑戦

グローバル化する経済 線の輸送から面の物流へ

1985年(昭和60年)に創業100年を迎えた日本郵船は、グローバル化する経済や、多様化する顧客ニーズに対応するため、海運業から総合物流業への転換というビジョンを打ち出した。更に2003年(平成15年)には、次の120年を目指す「フォワード120」を示し、総合物流事業の拡充を基本方針とした。現在の中期経営計画「More Than Shipping 2018 ~ Stage 2 きらり技術力 ~」にも、「海運業+α(プラスアルファ)」の路線は継承されている。

コンテナ輸送(ラクダ)
現在のコンテナ船

※『日本郵船歴史博物館 常設展示解説書』より一部転載いたしました。

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