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日本郵船の歴史

第二章 社旗にこめた願い日本郵船の航路が地球を横断する
里見宗次画ポスター(1941年)
京都工芸繊維大学美術工芸資料館所蔵
日本郵船の常連であったアインシュタイン
龍田丸のプール
新田丸の美容室

日本のフラッグシップ・キャリアとなった日本郵船は、積極的に航路を拡大していった。国内主要港に支店、出張所を設け、外航では朝鮮半島や中国、マニラ、ウラジオストクまで定期配船を行うとともに、東南アジア、南太平洋、北米などの海洋航路に不定期船の運航を始めている。次の課題は、ボンベイ(現ムンバイ)への遠洋定期航路の進出であった。

当時、基軸産業として日本経済をリードしていた紡績業でインドからの綿花輸入量が急増していた。ところが、日本とインド間の航路は英・豪・伊の三社が組織する「ボンベイ・日本海運同盟」が支配、綿花に課せられていた高率の運賃が、わが国産業の振興の大きな障害となっていた。

1893(明治26)年、「本航路上のみならず、貴社の既得航路においても激甚な競争を試みる」という同盟側の強い中止要求にもひるまず、日本郵船は国内紡績会社連合会と1年間の輸送契約を結び、ボンベイ定期航路を開設した。同盟側の大幅なダンピングに対し、日本郵船は適正価格を守り通した。紡績会社の多くが「自国の海運を守らなければならない」という強い意識で団結をしていたことも、大きな力になった。

2年間の激しい競争の末、競争停止を申し入れたのは同盟側だった。日本郵船のボンベイ航路は国際的に認められ、近海海運から遠洋海運へと事業は拡大していった。

続いての挑戦は欧州航路だった。日本郵船は1896(明治29)年にロンドン支店を設置し、土佐丸をヨーロッパに向け出航させるが、またしても欧米の海運会社による同盟が既得権を主張し、復路(東航)のロンドン、往路(西航)の上海寄港を阻止してきた。最大の貨物集積地に寄港できないことはビジネス上大きなマイナスだったが、同盟側を刺激すればビジネスそのものができなくなる。屈辱的な条件のもとで運航を続けながらも、日本郵船は船隊の拡充を進めていった。

信濃丸を含む13隻が揃い、総トン数で欧州海運会社に匹敵する体制ができあがっていく。こうなっては同盟側も日本の海運を対等の競争相手と認めざるを得ない。1902(明治35)年、日本郵船は欧州極東往航同盟への正式加入を果たし、これを契機に海外への航路網を飛躍的に伸ばしていった。

矢継ぎ早の新航路開設により、日本郵船は世界有数の海運会社に成長。貨物輸送はもちろん、客船ビジネスでも高い評価を得ていった。来日時には日本郵船の客船に乗ることをつねに希望したチャップリンをはじめ、アインシュタインやヘレン・ケラー、リンドバーグなど国際的著名人が乗船名簿にその名前を残し、多くの渡航者を満足させた歴史がある。

Episode2 ユダヤ人の命を救った日本郵船

「日本のシンドラー」と称される杉原千畝。駐リトアニア領事だった杉原は独断でビザを発給し、ホロコーストを逃れる多くのユダヤ人の命を救った。日本経由でパレスチナや北米へ向かう難民たちの救出に協力したのは日本郵船。ユダヤ人難民のリーダー、ゾフラ・バルハフティックはその著書『REFUGEE AND SURVIVOR』の一章、NYK PROJECT に当時の模様を克明に記している。

関連リンク:沿革